所在地 | 島田市金谷東2丁目13−2 (宅円庵) |
ジャンル |
歴史
文学・句碑
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歌舞伎「白波五人男」の日本駄衛門のモデル、大泥棒「日本左衛門」
日本左衛門は江戸時代、街道筋の諸国を荒らしまわった強盗団の首領。手下の数は200人にのぼるとも言われています。
本名を浜島庄兵衛といい生まれは定かでなく、京都某家の浪人だったという説があります。
遠州豊田郡向笠中村の役所に提出された願書によると、異名「日本左衛門」を頭領とする盗賊団は、他国の盗人と地元の悪者が連合し、富豪の屋敷に押し込み、金銀はもちろん衣類さえも残さず盗っていくと記されており、遠州を中心に大金持ちや豪農を狙い「夜働き」をしていました。
可睡斎から遠・駿・豆三国の諸寺院に送った「廻状(かいじょう)」には、日本左衛門の人相や装束など細かく記されており、「背は五尺八、九、年は29歳、見かけは31、2歳、月額(さかやき)に一寸五分ほどの濃い引傷、色白で歯並び普通、鼻筋通り目細く、面長、えりが常に右に偏っている。」などが詳細に挙げられています。
日本左衛門は全国から指名手配されていましたが、逮捕することはできませんでした。
しかし、延享4(1747)年、日本左衛門は京都の町奉行に自首し、江戸に送られ、同年3月打ち首、訴えのあった遠州鈴ヶ森で獄門(さらし首)となりました。享年29歳.
その首を金谷河原町出身のおまんという愛人がひそかに首を持ち帰りこの宅円庵に葬ったと伝えられています。
供養塔に刻まれた句「月の出るあたりは弥陀の浄土かな」は、岡本綺堂の作。
日本左衛門の辞世の句は「おし鳥能、人の思以羽か佐成りて、身に青あみ乃名こそ残連る」とされています。
宅円庵(たくえんあん)
慶安4(1651)年、宅円大徳上人が開創。
浄土宗鎮西派、専求院所轄。寺号は宅円大徳上人からとったものです。
本尊は東方薬師瑠璃光如来。のちに火事で焼失。
境内に日本左衛門の首塚があります。
公共交通機関 | 大井川鐵道新金谷駅より徒歩約6分(約500m) |
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