今井信郎 屋敷跡

所在地 静岡県島田市阪本
電話番号
営業時間
休業日
入場料
駐車場 屋敷跡前に空きスペースあり
WEBサイト
備考

施設案内

坂本龍馬暗殺の実行犯といわれながらも郷土の発展に尽力した功労者

今井信郎 / いまい のぶお <天保12(1841)年~大正7(1918)年>

生誕~青年期

天保12(1841)年、江戸本郷湯島天神下にて、幕臣・今井守胤の長男として生まれる。
安政5(1838)年18才の時、直心影(じきしんかげ)流 榊原鍵吉の門下に入る。
榊原の指導の下、今井はめきめきと腕を上げ、わずか3年で免許皆伝となり師範代を拝命する。
また、この時「片手打ち」の独自の剣法を編み出すに至った。
しかし、水戸藩の某剣士と試合をした際、この片手打ち一撃で相手の頭を割ったため、師から禁じ手として封印されたという。

京都見廻組への登用、近江屋事件

剣術・柔術に秀れ、必殺技を心得ていた今井は、慶応3(1867)年に京都見廻組に登用される。
同年11月15日、京都の近江屋で密議中の坂本龍馬と中岡慎太郎を同志と共に襲撃した。
当初、新選組の原田左之助の犯行と目されたが、確証がないまま原田は死亡する。

戊辰戦争敗戦、捕囚に

慶応4(1868)年1月、鳥羽・伏見の戦いに敗れた後、今井は江戸に戻り、衝鋒隊の副隊長となる。
幕府軍として戊辰戦争を函館五稜郭まで戦い抜いた後、降伏し捕らえられた。

明治3(1870)年、元新選組隊士・大石鍬次郎の「近藤勇が酒席で今井が龍馬を討ったと語っていた」との証言を元に、今井は近江屋事件について厳重な取り調べを受ける。
しかし、今井は「自分は見張りを務めただけで手出しはしていない」と証言。
実行犯として裁かれこそしなかったが、龍馬暗殺に関わり、また幕府軍として官軍に抵抗した罪で禁固刑となる。

釈放

明治5(1872)年、西郷隆盛ら、薩摩の口添えにより特赦となる。
その後、明治10(1877)年、西南戦争勃発の噂を聞いた今井は、新政府軍に一矢報いるためこれに加わろうと薩摩を目指す。
しかし、道中で西郷隆盛戦死の報を聞き、結局戦地へ辿り着く前に西南戦争は終結した。

榛原郡初倉村へ

明治11(1878)年、今井は牧之原開拓を指揮した中條景昭を慕い、静岡県榛原郡初倉村に移住した。
今井の剣の師匠である榊原と中條は、徳川家臣団剣豪の双璧といわれ深い交流があり、そのため榊原は中條に今井の庇護を頼んだという。
その後、約40年もの間、地域の経済・産業・教育・文化の振興に携わった。
教育委員や農協の前身となる榛原郡の農事会長や、学校(現在の県立榛原高校)の創設にも関わったとされる。
晩年は初倉村第四代の村長を務め、村民の信望に応え、また、新時代に向けて自由民権思想の普及運動に尽力した。

死去

大正7(1918)年6月25日死去。享年78才。
地福山種月院に葬られるが、後に、東京文京区原町寂円寺の今井家の墓へ移骨された。
現在種月院にある墓石は石碑となり、住職の厚意で中條の墓碑の近くに寄せられている。

現在

屋敷は竹林に覆われ薄暗い藪の中にあり、裏山に通じる特殊な避難道を備えていた。
家の間取りも常に刺客の襲撃を想定した造りで、床の間の掛け軸をめくると家の裏へ通じる隠し通路があったという。
現在はひっそりと茶畑と竹林に囲まれ、往事の面影を偲ぶことができる。
屋敷跡は約2970平方メートル、そのうち住居部は約2145平方メートルに及ぶ。
これは地主や地域住民有志らの協力により造成・整備された。
また、顕彰碑や義理の娘にあたる歌人今井邦子(信郎の三男健彦の妻)の歌碑が建立されている。
2020年、台座を含め高さ約2.5mの今井信郎像が建立された。
これは遺族から許諾を得て複製された写真を元に、白御影石を用いて精巧に製作された。

交通案内

公共交通機関 JR島田駅より島田市コミュニティバス 湯日線「本村方面行」乗車、「月坂一丁目」下車、徒歩約21分(2㎞)
徒歩順路:月坂一丁目バス停から東に進みすぐ近くの交差点を左折し北上する。
左手に歯科医院を見ながらそのまま直進、信号のある交差点を直進して道なりに進む。
東海道新幹線の高架下をくぐると右からの道と合流するので、道なりに左へ進む。
そこから300m程進むと正面に案内看板があり、看板を右折して約300m。
※コミュニティバスは土日祝も運行していますが、土日祝は運行本数が減りますのでご注意下さい。
途中、道幅が狭くすれ違い待機場所が少ないため、大型車での来訪はおすすめできません。
国道1号線 島田金谷/藤枝バイパス 野田I.C.より約13分(5.6km)
東名高速 吉田I.C.から約10分(約5㎞)
新東名高速 島田金谷I.Cより約21分(13.5km)