中條金之助景昭の像(中條金之助景昭像公園)

所在地 静岡県島田市阪本4846
電話番号
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入場料
駐車場 無料駐車場有(大型車不可)
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備考

施設案内

不毛の地であった牧之原を開拓し、大茶園を築いた元幕臣

中條金之助景昭 / ちゅうじょうきんのすけかげあき <文政10(1827)年~明治29(1896)年>

生誕~青年期

文政10(1827)年、御小姓組中條市右衛門景利の子として生まれる。
青年時代に山鹿流、心形刀流、北辰一刀流を習得。
嘉永7(1854)年より13代将軍徳川家定に仕え、剣術・柔術世話心得などを歴任する。
のちに、幕府が講武所を開設すると剣術教授方に就任。

浪士組時代

文久2(1862)年、清河八郎の発案によって浪士組が結成されると、山岡鉄舟と共に取締役になる。
この頃、山鹿流の師である窪田清音が門弟である江戸の天才刀工・源清麿から贈られた刀を懇望し、清音より譲り受けたという。
その後、清河が尊王攘夷論を唱えると、同調しなかった隊士達は壬生浪士組(後の新選組)に分裂。
中條はこれには加わらず、江戸へ戻った。
清川が暗殺されると、浪士組は幕府によって新徴組として再編され、中條は新徴組支配を歴任した。

大政奉還・江戸開城、水戸から駿府へ

慶応3(1867)年、15代将軍慶喜が大政奉還を行う。
これによって慶喜の身辺を危ぶんだ勝海舟らは、慶喜を警護するために精鋭隊を組織。
中條は当代一の剣客としてその頭に抜擢される。

江戸開城の際には同志と城内で自決するつもりだったが、勝海舟の説得で思い留まる。
慶応4(1868)年4月、江戸城から水戸に退く際、慶喜と共に下った。

この後、徳川慶喜や、徳川宗家を継いだ徳川家達の駿府(静岡)への強制移住が決定。
中條は慶喜に従い精鋭隊(後の新番組)とその家族約200人と共に駿府へ移住した。

開墾の申し出

鎖国政策から一転して開国した新政府は、外貨獲得の輸出品として生糸と茶に注目。
山岡鉄舟、勝海舟らの提言によって茶の生産を決める。

すると、当時久能村(現・静岡市清水区)に住んでいた中條は、平岡丹波、勝海舟らに牧之原台地の開墾を申し出た。
「海舟座談」(著者:勝部真長)によると、中條はこのとき
「聞くところによると遠江国の金谷原は磽确不毛の土地で、水路に乏しく、民は捨てて顧みざること数百年に及んでいる。
若し、我輩にこの地を与えてくださるならば、死を誓って開墾を事とし、力食一生を終ろう」と誓ったとされる。

牧之原移住と荒地開拓

明治2(1869)年7月、徳川家達より牧之原荒野を開墾する許可が下りる。
そして組頭に当時42歳の中條、副頭に大草太起次郎高重、その他18名を幹事として約250戸の元幕臣達が「金谷原開墾方」として牧之原へ転住。
中條たちは広大な荒地1,425町歩の開墾を始めた。
元幕臣、といっても彼らは様々な身分出身の者たちが入り混じった集団であった。
しかし、中條たちは一同をまとめ上げ、様々な取り決めや仕組みを作成しながら開墾を進めていった。
これによって、明治4(1871)年には200町歩だったのが、明治10(1877)年には500町歩に増加。
中條は見事に牧之原開墾を成功に導いた。

晩年

明治29(1896)年1月19日、死去。享年70歳。
勝海舟が葬儀委員長を務め、遺骨は地福山種月院に埋葬された。

逸話

明治7(1874)年には神奈川県令(知事)への就任を打診されたが、
「一旦山へ上ったからは、どんなことがあっても山は下りぬ。お茶の木の肥やしになるのだ」
と一笑に付し、これを辞退したという。

明治11(1878)年、近江屋事件の犯人説のあった今井信郎を受け入れる。
これは中條と共に剣豪として知られていた直心影流の榊原鍵吉の依頼とされる。
榊原は今井の剣の師であり、中條とも深い交流があった。

現在

昭和63(1988)年、今日の牧之原大茶園の基礎を築いた功績を称え、島田市によって中條金之助景昭像・顕彰碑が建てられました。
天気の良い日には遠く富士山を望む高台から、像は今も牧之原の台地を見守っています。

交通案内

公共交通機関 JR島田駅より 島田市コミュニティバス湯日線「本村方面行」乗車、「谷口橋下」下車、徒歩約25分(1.7km)
新東名高速 島田金谷I.C.より約19分(12km)
東名高速 相良牧之原I.C.より約17分(12.3km)
国道1号線 島田金谷/藤枝バイパス 野田I.C.より約15分(5.8km)
国道1号線 島田金谷バイパス 旗指I.C.より約17分(6.7km)